つまらないとは思いますが、ちょこっと自己紹介をさせてください。
専修大学経済学科経済学部を卒業後、群馬県民生活協同組合に就職。
いわゆるCOOPですね。
大学生は支店長候補ということで鮮魚、生鮮、生肉を順次経験させるべく配属させられていた。
そんな職場で最初に配属されたのは鮮魚センターで
やる気に満ち溢れた僕は「よっしゃーやったるか!」と前途洋々でした。
しかし、僕を待ち受けていたのは牙をむいたブラック企業だったのです。
毎朝、6時半にはタイムカードを押し、白衣に着替え長靴を履きエプロンをして仕事始まりの7時前までに包丁を研ぎあげる毎日。
その包丁も一本だけではなく大小合わせて6本はありました。
アジなどを下ろすときに使う小さい包丁から100キロ近い大マグロを下ろすときに使う大きな包丁、そして刺身を切るときに使う刺身包丁などなど。
それだけでも単純に計算しても10時間労働。
しかし、その十時間労働には想像を絶する労働環境があったのです。
鮮魚センターでは働く人が15人くらいいたでしょうか。
マグロを下ろしている人はマグロ、鮭を下ろしている人は鮭、アジを下ろしている人はアジと扱っている魚に分けてまちまでした。
そんな状態だったので、休みもまちまち休んでいました。
その上、休み時間ときたら10分くらいの時間だったのでです。
3時休みについても10時休みと同じ感じでした。
このような劣悪以外の何物でもない職場環境だったのです。
僕は最初の3か月間くらいは辛抱していたものの、反旗をひるがえしセンター長に談判したのです。センター長は保身のため僕の提案を自分では処理できず本部に持って行くように指示をしました。
センター長が口を開いた。「齊藤君がそこまで言うのであれば本部の総務を通して話をしなさい。ここセンターでは齊藤君の話を判断しかねるから」と。
僕は本部に直談判を決行。
当時の山本理事長に直訴をしたのでした。
1984年、昭和59年のことでした。
ダメもとで談判した僕の言い分を全部受け入れてくれた理事長は
それまでは10分くらいしかなかった10時休みと3時休みを30分間とし、
昼休みに至っては45分間だったものを60分間にしてくれたのでした。
その上、まちまちの休みだったものを一斉にい休めることになったのでした。
これを受けて鮮魚センターで働く人たちは万々歳。
「齊藤君、ありがとう。君のおかげで職場が働きやすくなった」と狂喜乱舞。
僕は達成感があったものの群馬県民生協という組織が信じられなくなりました。
なぜなら、新人で入ったばっかりの若造の言うことをあっさりと取り入れた組織だったから。
それでも僕は歯を食いしばり、その後も毎日魚を切り続けたのでした。
しかし、ついに僕は前途の明かりが見えない職場を去ることになったのです。
4月に入社をして半年後の11月のことでした。
それからの僕の人生は波乱万丈な人生を遂げることになるのです。
会社を3社立ち上げるも全て倒産させてしまい、負債総額3億8千万円。
ヤクザから追い込みをかけられ、生死の境目を綱渡り。
しかし、自殺をするようなこともなくなんとか生きのびたのです。
ヤクザからの追い込みを交わしたものの、債権者の追立はようしゃありませんでした。
気づいたら26度に及ぶ裁判を起こされていたのでした。
僕は必死でした。
弁護士に相談する費用などあるわけもなく、できることと言えば裁判に対処する準備書面を用意することでした。
当時はパソコンなど無い時代。タイプライターで準備書面を用意。
全ての裁判に一人で臨んで行ったのです。
債権者は弁護士を立て僕を攻め立ててきました。
その責め立てときたら想像をはるかに超えていたものでした。
しかし、僕は専門書を図書館で借りてきては相手に立ち向かう手立てを考えて対処していったのです。
実践の真剣勝負の中で「やるかやられるか」を体験した僕は実践経験の中でスキルを磨いていったのです。
そしてすべての裁判で結審がなされ、分割で支払うことの容認を取ったのでした。
この壮絶な経験が僕のその後の生き方を方向付けてくれました。
そのままほっておけば倒産をしてしまうであろう会社の再生を手伝う企業再生コンサルタントという仕事を立ち上げたのでした。
そして、57歳になった期に全ての会社経営から撤退。
僕はインターネット業界の門をたたいたのでした。
しかし、またまた僕を待っていたインターネットの世界も壮絶なものでした。
なぜなら、毎日15時間、来る日も来る日もパソコンに立ち向かいブログ記事を書く日々。
独学では先が見えないことを知り、次々と高額塾で学びを得ようと参加したのでした。
気づいた時には400万円以上を散在していたのでした。
「石の上にも三年」と言いますが、「パソコンに挑んでから5年」ということでしょうか。
記事はざっと数えても3000以上は書いたでしょうか。。。
Facebook集客、Twitter集客、YouTube動画、アドセンス広告などなど
ありとあらゆるインターネットで稼ぐ副業はやってきました。
その結果、ついに月間30万PVをたたき出すブログを作ることができたのでした。
そして、今では「シニアが老後を副業で安心できる生活を手にする方法」をブログで発信しているわけです。